YO茶の足跡残す日記

日々感謝の気持ちで、思う事をいろいろ書いていきます。

未曾有の大震災

東日本巨大地震。最初の大きな揺れがきたとき、私はオフィスにいた。ビルの23階。最初ガタガタと縦揺れ。


「あ、地震だ。」


しばらくして横揺れが始まる。しかし、大きい。これは大きいぞ。ビル全体が左右に揺れる。揺れが止まらない。



みんな立ち上がって様子を見ている。私はとっさに非常階段に向かった。私についてきたのはKEN。2人で非常階段をおりた。自宅に連絡するが、まったく電話がつながらない。



初動がはやかったこともあり、階段を降りている人は少ない。降りている間も床は揺れている。何か金属が折れるような「バキッ!」という大きな音がなる。恐怖が増大した。


1Fに到着したころ、「1Fで火事です」との警報が鳴り響く。恐怖がピークに達する。

B1Fの非常口を抜け、外の広場へ。まずは一安心。まだ出ている人は少ない。


しばらくしてから2回目の大きな揺れがくる。まだ出てくる人がいる。この人たち、呑気だなあ。。(あとから出てきた人の話を聞くと、非常階段がぎゅうぎゅう詰めで全く身動きがとれない状態だったので時間がかかったのだそうです。)


持って降りてきたのはガラケーと免許証だけ。相変わらず携帯電話はまったくつながらない。しかし、iModeメールは送ることができた。一緒に逃げてきたKENのiPhoneはまったくNGの模様。AUもだめ。



そんなとき、奇跡的に神戸の弟から電話がかかってきた。私の安否を気遣って連絡をとってくれたのだ。弟は阪神大震災の被災者。(私も経験したが、大阪の四条畷にいたのでまだ遠かった。)地震のときのたいへんさは身にしみている。だから連絡をくれたのだ。自宅に電話がつながらないので、まずは自分が大丈夫だということを連絡してほしい旨を伝えた。



その後、弟は何度か公衆電話から私の携帯にかけてくれたのだが、私の携帯は公衆電話からの着信を拒否する設定にしていたのだ。こういう状況は想定していなかった。この拒否設定、考え直さないと。



外へ避難している間、何度か余震が。そして、けたたましいサイレンとともに「大津波警報が発令されました。海の近くの人は、高台に注意してください。」とのアナウンス。



ワンセグでテレビを見てみる。ガラケーとばかにされながらも、こんな状況でいちばん情報を収集できたのがワンセグだった。スマートフォンなんてまったく役にたたず。



すると東北地方で震度7との報道が。そして、「大」津波警報が出ている。津波の最大の高さで10mと出ている。



これはたいへんなことになった。この時点で帰宅することに決めた。



しかし、もう1回23階まで上がって荷物やコートをとりに戻らなければ。いつ戻れるのか。そもそも、もう1回あがって、そのときに何かあったら、避難した意味がない。



しばらくして、10階までなら非常階段を上がってもよい言うことになった。避難してから1時間ほどしてからのことである。そこでも、私とKENは即座にうごいた。そして23Fへ。フロアには当然誰もいない。荷物を速攻でまとめる。自販機で水を買ってカバンに入れる。



そして非常階段へ。途中から会談を上ってくる人とすれ違うようになる。最後は登る人で階段がいっぱいになる。かき分けるようにして1Fに脱出。



KENとは帰る方向がちがうため、ビルの下でお互いの無事を祈って別れる。実は、KENのご両親が、仙台の海岸沿いにお住まいなのだそうだ。心配だ。



ここで帰り方を考えた。電車は完全にストップ。タクシーはつかまりそうにない。


歩く。


決めた。


六本木から浦和まで歩く。


こんなときのために防災マップをカバンに入れていた。



ミッドタウンタワーを出て外苑東通りを青山1丁目方面へ。途中のコンビニでホッカイロとマスクを購入。

青山通りを超えて東宮御所を横目に信濃町

さらに外苑東通りを北上し、曙橋で西へ左折し、住吉町の商店街を抜ける。

東京女子医大病院の間を抜けて若松町。そして大久保通りを西へ。



国立国際医療センター前で、車いすの人が横断歩道をわたろうとしているが信号が赤になるまでにわたりきれない。まずい。いそいで車いすに駆け寄って道路をわたりきる。病院に帰るとのことだったので、そのまま車いすをおしていくと、ご家族の方がおられた。病院中探していたらしい。

まあ、いずれにしても良かった。


そこで公衆電話を見つけた。奇跡的に誰も並んでいない。そこから自宅へ電話。つながった。


YO茶「いま歩いて帰ってるから。」
妻「テレビで枝野さんが、無理せず会社に泊まってくれと言ってたよ。大丈夫?」
YO茶「わかってる。途中でタクシーを捕まえられたら乗るし、最悪しんどかったらホテルにとまるから。」
妻「気をつけてね。」



テレホンカードを持っていたが、やはりいざというときには役に立つんだ。(後ほど、ある時刻から公衆電話が無料になったことを妻から聞いた。私がかけたときはまだ有料だった。)
途中なんどか携帯電話での通話を試したが、NG。きっと、公衆電話の重要性が再認識されることだろう。



さて、大久保通りをさらに西へ歩き、大久保二丁目の交差点を右へ曲がり、明治通り北へ。ものすごい多くの人が歩いている。自動車は全く動いていない。歩行者のほうが速いくらいだ。



こういうときには、自家用車は使ってはいけないのだ。公共機関のバスなどが使えるようにしなければならない。



かなり足が痛くなってきた。けど、歩くのをやめたら歩けなくなるかもしれないという恐怖が、前へ前へと歩かせる。そして、なによりも家族に会いたかったのだ。



明治通りをひたすら北上。高田馬場を超え、目白通りを超える。
途中でコンビニに寄ってトイレへ。しかしここも長蛇の列。トイレ待ちで20分ほどかかった。



そしてついに池袋。六本木を出てから4時間かかった。とんでもない人の行列が。どうやらタクシー待ちみたいだ。けど、この列のいちばん後ろにならんでいる位なら歩いたほうが絶対に早い。



さらに明治通りをひたすら歩き、次の目標は王子。途中首都高中央環状線と合流する。途中で大勝軒を見つける。おぉ、食べたいなぁ。けど、まだだ。まだ早い。王子までの距離が長い。。心が折れそうになる。けど、こんなところでギブアップしても、何もない。帰るしかないんだ。



黙々と歩き続ける。そして王子に着いた。六本木を出てから5時間が経過している。王子駅前もタクシー待ちの長蛇の列が。さあ、今度は赤羽を目指すことになる。



明治通りから北本通りへ進路を変え、ひたすら赤羽方面へ。ここで、最大の山場がやってきた。



脚の付け根が痛い。足全体がしびれているような感覚。けど立ち止まることができない。カバンに入っているパソコンなんて、こんなときにはただの重しになるだけ。なんの役にも立たない。拷問だ。このパソコンが全行程で私を苦しめた。



多くの人が相変わらず歩いている。しかし、私の歩くペースがかなり落ちてきているせいか、抜かれるようになってきた。北本通り、長い。。。。。歩いても歩いても北本通り。昨日、仕事が遅くなり、タクシーで帰った道だ。



もう、自分との闘いだ。歩く。ただ歩く。



そしてようやく赤羽の交差点に到着。右折して、新荒川大橋へ。この橋を渡ると、埼玉県だ。



普段、自動車でしか走ったことがないのでまったくわからなかったのだが、、


「荒川って、幅広っ!!!」



歩いても歩いても橋の終わりが見えない。すごい大きな橋だったんだということに、気付かされた。歩くって大事だなあ。



そしてついにわたりきった!埼玉県だ!わたりきったところから産業道路へ。勝手知ったる道だ。



このあたりで足が前に進まなくなってきた。だめだ。さすがにここで食事とってエネルギー補給しないと自宅までもたない。



川口で何か食べよう。JR川口駅に到着。駅前でたべようとしたら、店舗前の天井が落ちたみたいで全店既に閉店中。。。



実は川口駅でバスかタクシーでもと期待したのですが、ここでもやっぱりタクシー待ちの長蛇の列が。


川口駅を後にし、少し歩いた先のJolly Pastaでようやく夕食。ここまでで六本木から6時間経過。夜10時のことです。



やっと座れる。あったかい。足のしびれがスーッと引いていく。



カルボナーラとスパイシーチキンを注文。うまいー!!!



少しばかりの休憩とエネルギーの補充は完了。ゆっくりしすぎると歩く気なくすし、そろそろいくか。お店にいたのは20分くらいかな。


さあ、川口から自宅までの道はもう何もみなくてもよい。産業道路をひたすら北上だ。


足が棒のようになるとはこういうことなのか。ひざを曲げられない。でも進む。知っている道になると気持ちが大分違う。


ひたすら歩く。このあたりからiPodを聴きながら歩き始める。外環を超え、いつものバス通りに、もう少しだ。途中セブンイレブンによっておつまみを買う。家についたら少しビールでも飲もうかと。(結局疲れて飲めませんでした。)



そして自宅に到着!!所要時間8時間。



家族は全員リビングに集まって雑魚寝をしていました。家族の元気な姿を見て、ほっとしました。

温かいシャワーが本当に疲れを洗い流してくれるようでした。


今テレビで改めて全国の様子を報道しています。未曾有の大災害です。


原子力発電所の停止、放射能漏れ。
津波による町全体の水没。
停電。
雪崩。
がけ崩れ。
橋の崩落。


自分に何ができるのか。来週は会社にいけるのか。
今回の徒歩による帰宅で、自分の体力は(帰れたとは言え)こんなものだったのか。



普段電車で通っているからわからないが、自分はなんと遠いところへ通勤していたのか。
自分の家族を守るということはどういうことなのか。


被災した人たちに自分は何ができるのか。協力できることは協力したい。