評論家にはなってはいけない(最後に少し追記しました)
窓の外から。。
おぉ、うぐいすの鳴き声が聞こえた!
もう春だなぁ。
さて、ちょっと言葉の重みに関して感じたことをつらつらと書いてみます。
いろんなプロジェクトや会議などで、「・・・すればいいんじゃないですか」「・・・しないとだめだと思いますよ」といった意見を出す場面というのはよくあると思います。しかし意見をただ言うだけで、具体的にアクションを起こす段になって自らは手を動かさないという人っています。要は口しか出さない人です。私はそういう人を「評論家」と呼んでいます。
もちろん、立場・状況によってその人の知識・経験からそういう意見を求められるという場合もありますが、なんといいますか、「常に」「それだけ」の姿勢ではいかんと思うのです。なぜなら、評論家は「・・・しないといけない」というアクションに対して責任を負わないからです。ある意味一番楽なポジションです。
若ければ若い程、こういう態度の人は鼻につきます。
結局、人の言葉の重みは、その人がどれだけの「経験」をしてきたかによると考えています。「経験」のない、机上で勉強しただけの言葉は軽いのです。おそらく自分が発する言葉も、説得力がある事があるのだとすれば、「経験に裏打ちされたもの」が大多数でしょう。そこに、勉強による知識に経験が加わってより深みが出るのだと思います。
「ザ・現場」。現場に行き、責任を背負い、経験してこそ、言葉には説得力が生まれるのですよね。
そんなことを自戒する朝なのでした。
うーー、今はカラスの鳴き声しか聞こえない(- -;;)
(3/21追記)
※このブログの日付は深夜1時18分となっております。もともとこの時刻に書き込もうとしたのですが、あまりの眠さにいったん保存して寝ました。そして朝に再度書き込んだため、内容と時刻にずれが生じてしまいました。。ご了承くださいませ。。
#日々感謝 m(_ _)m