YO茶の足跡残す日記

日々感謝の気持ちで、思う事をいろいろ書いていきます。

沖縄ひとりたび(3) 〜激戦の地、戦跡を巡る(2日目)〜 (写真を追加しました)(魂魄の塔の写真を追加しました)

はい、YO茶の沖縄一人旅、1回でまとめたかったのですが、書く事が多くて3回目に突入しました。(第1回はこちら、第2回はこちらです。)



さて沖縄2日目。この日が今回の旅程で唯一、終日活動ができます。もともとの主目的としていた女子看護隊の慰霊碑をまわっていきます。沖縄本島には6つの女子看護隊の慰霊碑がありますが、そのうち積徳女子看護隊の慰霊碑は1日目にまわりました。残りの慰霊碑は、糸満市に4つ、名護市に1つあります。糸満市名護市は結構離れていて、高速を使っても約1時間40分ほどかかってしまうのです。。



ただ、やはりまずは数が多い方からまわることにし、糸満市にあるひめゆりの塔を目指してホテルを出発しました。南の方へ移動するに従い、那覇市の中心部とはまた違った雰囲気となってきます。ところどころに森や林が点在するのですが、その濃い緑がなんともいえず重い空気を醸し出します。



そうこうしているうちに、ひめゆりの塔に到着。ここは完全に観光地化されていて、お土産屋さんが無料駐車場に誘導してくれます。駐車場に車をとめましたら、早速売店のおばちゃんが「お土産買って行ってね」とセールストーク。まあ、お土産は後で買うとして、まずはひめゆりの塔に向かいました。ここでは慰霊碑に備える献花が売られています。私は購入して花を捧げる事にしました。



敷地に入ると、すぐに慰霊碑が見えてきます。



慰霊碑の前には献花台が。私はそこに花を置いて、お祈りをしました。ひめゆりの塔は、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の女学生達から構成された看護隊で亡くなられた方のために建てられています。



この慰霊碑自体が壕の上に立っており、塔の下に大きな穴が空いているます。この塔の横に併設されているひめゆり平和記念館の中を見学してわかったことですが、この壕の中は非常に傾斜のきつい、いわば崖のようになっていて、ここを出入りするのは容易ではなかったと思われます。


記念館の中の展示物を、比較的時間をかけて見学しましたが、改めて戦争の熾烈さ、悲惨さを目の当たりにしました。一度はこの記念館を見学してみることをお奨めします。さて、YO茶が見学を終えた後、修学旅行の団体が続々と訪れていました。この記念館は、確かに見学する価値はあると思いました。



偶然だったのですが、私が訪問した6月18日というのは、沖縄戦において大きな意味を持つ日でした。それは、突如軍から、各看護隊に対して解散命令が出された日なのです。ここからは、自分の身は自分で守れという、信じられないような命令が下ったのです。ひめゆり部隊の死者は194名。ところが、この6月18日以降に亡くなった方は実に128名。生き残った方はわずか28名でした。なぜこんな無茶な命令が下ったのか。全く理解できません。



さて、次に向かったのは「梯梧の塔」です。ここは、ひめゆりの塔からすぐ近くにあります。私が止めた無料駐車場の向かいのお店の方に聞くと、その駐車場奥ののうにある塔がそれだと。「このお店の名前みてごらん。”でいご”でしょ。」といわれ、あぁ、なるほどなと思いました。



近づくと、たしかにここが梯梧の塔です。ここには、私立沖縄昭和女学校の亡くなった女学生達の慰霊の為に建てられています。ここでも、心からの祈りを捧げます。



その後、フィット君でほんの数分移動した先に、「ずゐせんの塔」があります。ここは県立首里高等女学校の女学生達から構成された看護隊で亡くなられた方のために建てられています。



ここは、他の塔の場所とちがって見晴らしがよく、風が吹き抜けるせいかいくぶん雰囲気が違う気がしました。



ひめゆりの塔まできたら、この3ヵ所を訪問できます。残るは白梅の塔と、なごらん女子看護隊の慰霊碑、「南燈慰霊之塔」のふたつです。


白梅の塔に行く前に、私は平和記念公園を訪問しました。目的は、「健児の塔」を訪れるためです。駐車場に到着したのですが、隣接している建物はすべて廃墟のようになっており、車も一台もありません。ただ、案内の看板が立っていたので、そちらに向かって階段をおりて行きました。



すると、高校生とおぼしき20人位の集団が私とは逆の方向へ歩いてきます。彼らは階段をあがってきます。そんな集団が一定間隔で現れます。オリエンテーリングをやっているのかな?そして出て来たのが健児の塔です。



健児の塔とは、沖縄師範学校の男子学生で構成された、鉄血勤皇隊の犠牲者を祀った碑です。この隊の学生達はなにをやったのか。陣地構築、伝令や通信、さらに斬り込み隊として急造した爆雷(箱に火薬を詰めた爆弾)を背負って米軍への自爆攻撃をした者もいたそうです。なんというむごたらしい事をさせたのでしょう。


正直、ここは相当空気が重いです。一人でくるのは、あまりよろしくないかもしれません。たまたま学生の団体グループがいたので助かりました。。おそらくですが、暗くなってからはあまり行かないほうが良い気がします。


次に向かったのは「魂魄の塔」(こんぱくのとう)です。この塔は、沖縄県で最初に建立された慰霊碑です。到着すると、修学旅行と思しき大型バスが駐車場にとまっており、魂魄の塔の前で、語り部と思しき方が高校生達の前で説明をしていました。その説明を横から聞いていて「ん?」と疑問に思った事が。


その場所は、沖縄戦の中でも屈指の激戦地で、日本兵、アメリカ兵、県民と多くの人が亡くなったそうです。それはその通りなのだろうと思います。その方は、高校生にこんな説明をしていました。



「アメリカ兵が、一面に広がる死体を埋葬するために、生き残った日本兵に穴を掘るように指示したそうです。すると、穴を掘る事を指示された日本兵は恐れて逃げ出しました。なぜだかわかりますか?日本軍は中国で、同じように穴を掘らせたんです。けどその穴は、掘ったその中国人を射殺してそのまま埋めていたんですね。そんな残虐なことをしていたからみんな、自分が殺されると思って逃げたんです。アメリカ兵は単に穴を掘って死体を埋葬するためだったんです。そして逃げ出してしまうと、その人達は射殺されました。」



この話、本当に正しいのかな?



ちゃんと調べていないのですが、沖縄に派兵された兵隊さんが、中国では穴を掘らせて、そのまま掘った人を射殺して埋めたなどということを沖縄に配属された兵士が本当に認識していたのでしょうか?中国大陸で行われた日本軍の行為は、日本軍全体の共通認識だったのでしょうか?そもそも、そんな行為を日本軍は本当にしていたのでしょうか?
残虐というならば、原爆によって、一瞬に一般市民を大量虐殺したアメリカは、この大戦において、いや有史において最大の罪を犯したのではないか?



高校生の諸君にはそういった部分を質問してほしかったな。こうやって日本はひどいことをした、だから日本は謝り続けないといけないというようなことが刷り込まれるのかもしれないと思いました。



魂魄の塔は平和創造の森公園内にあります。



この周りには、広島の塔、島根の塔、北海道の塔、少し離れた場所に東京の塔など、各県の塔がたくさんあります。すべての県の塔をまわるというのも良いかもしれませんね。ただ、それなりに時間を用意していかないとしんどいかもしれません。





ちなみに、ここも少し奥に行った場所ですごく重い場所がありました。その場所と写真の公開は控えますが、やはり暗くなってから訪問するのは避けた方が良いかもしれません。



その後、白梅の塔へ。もともと、この旅行の最初のきっかけとなったのが白梅の塔です。


ようやく、ようやく訪れる事ができました。白梅女子看護隊は、県立第二高等女学校の女学生で構成されていました。



もともとは、このような小さな碑だったそうです。



私は、購入してきた花を献花し、石碑に持って来た水をかけ、心からの祈りを捧げました。どうか安らかにお眠りください。上の写真の献花台に置いてある花が、私が捧げた花です。白梅の塔近辺には売店がなにもないので、私はひめゆりの塔で売っていた献花を持参しました。お値段は200円です。水は空のペットボトルにホテルで水を入れて持って行きました。



この碑のすぐ右には自決の壕というのがあります。中に入る事ができるようになっているのですが、ここには、どうしても足を進めることができませんでした。ある所から先にどうしても足が進まないのです。私は外から手を合わせました。なお、写真も撮影したのですが、ここの写真については思う所があり、公表を控えます。



その後、私は「南燈慰霊之塔」が建立されている、名護高校を目指しました。高速を使って約2時間弱でしょうか。まずは高校に電話を入れます。高校の敷地内にあるので、訪問の許可を頂かないと、無断侵入になってしまいます。電話をして主旨を説明したところ、


「校長・教頭に相談するのでお待ちください」


とのこと。しばらく待っていましたが、結果OKとのこと。おぉ、こんな急なお願いにも関わらず、ありがたい!早速高校へ向かい、事務室へ声をかけます。すると、事務員さんがお二人で案内をしてくれました。少し歩いた場所に、それはありました。



そして、手を合わせます。



これで、沖縄本島の女子看護隊の慰霊碑はすべてまわる事ができました。実は、この日の天気予報ではくもり後雨ということだったのですが、不思議な事に、各慰霊碑を訪問するタイミングでは全拠雨がふりませんでした。これはちょっと驚きましたね。特に、午前中名護は雨だったのに、自分が移動するころには雨がやんでいたなんてことがありました。


たまたまだとは思いますが、ひょっとしたらお天道様がみていてくれたのかもしれません。



これで慰霊碑を巡る旅は完了です。この後、古字利島という場所へいきましたが、そのことについては次回に書きますね。



そして2日目最後の訪問地として辺野古を選択しました。名護方面から辺野古へ向かう際、長いトンネルを抜けて行きます。沖縄にこんな長いトンネルがあったんだな。知りませんでした。辺野古に到着すると、車道と海岸の間にキャンプシュワブが広がっています。うーん、車を止めて撮影できるような感じではないなぁ。


キャンプシュワブを通過し、海岸線に近い民家のほうに向かいます。外を出歩いている人はあまりいないです。道路で遊んでいる子供達が数人いたくらいです。なんか寂しいなぁ。


少し見晴らしの良い駐車場に車を止め、海岸線を撮影しました。これが辺野古の海岸線です。ただ、この撮影した場所が滑走路建設予地かどうかはわかりません。



うん、きれいな海です。私は、普天間基地のあの民家の密集した危険な状態をできるだけ早く回避しないといけない、という事は肌で感じました。その飛行場をこの辺野古に移転することについてどうか、と言うと。。。これはもう現地の方の意向だと思います。実際にどれだけの方が反対しているのだろうか?辺野古の住民とキャンプシュワブの米兵は、良好な関係である、ということを先日お邪魔した焼き肉屋さんの店長からお聞きしました。そういった事を考えると、私は辺野古への移転は進めるべきではないかと思いました。



民主党時代に、「最低でも県外」と行ってしまった事から歯車が狂ってしまった。総理大臣の発言は、本当に重いのだと感じました。



こうして私は辺野古を後にし、ホテルへと戻ったのでした。



2日目沖縄のあちこちをまわってみて感じたこと。ここは、第二次世界大戦にこの国の将来を賭けた戦いが繰り広げられたその跡が、今でも生々しく感じることのできる場所が多く残っているということでした。今日まわった女子看護隊の多くの慰霊碑には、水とお花が供えられていました。今でもまだあの戦争で亡くなった方を慰霊される方が確実におられるのです。今回このブログでは紹介しなかった他の慰霊碑でも、多くの場所では献花がされていました。



そして、まさに現在の安全保障の最前線だということを実感しました。ただ、沖縄県民の方々の思いは決して反対派がマジョリティだと言う訳ではないということもわかってきました。やはり現場に行ってみる事で様々な事を考え、学ぶ事ができました。



次回は、一応少しは観光してきましたので、そういった話を書きたいと思います。



それでは良い週末をお過ごしくださいませ!



#日々感謝 m(_ _)m