「大往生したけりゃ医療とかかわるな」を読んだ
今年に入ってからいろんなジャンルの本を読んでいます。先日、
「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(中村仁一氏著、幻冬舎)
という本を読了しました。この本、自分の死の迎え方に対してどう向き合うかを考えさせられる一冊でした。
人は本来、老化による「自然死」で亡くなる場合には、苦痛を感じることなく穏やかに死ぬことができるそうです。
自然死とは「餓死(飢餓、脱水)」による死亡を言います。人間は、いのちの灯が消えかかっているとき飢餓状態だと脳内モルヒネ様物質が分泌され、幸せな気持ちで満たされるのだそうです。脱水状態の場合、血液濃度が濃くなることで意識レベルが下がり、ぼんやりとした状態になるのだそうです。
そうして、苦痛を感じることなく穏やかに死んでいけるのだそうです。
以下の言葉がたいへん印象に残ります。
「食べないから死ぬのではない、死に時がきたから食べないのだ。」
そうした穏やかな「自然死」を迎えることは、今の日本では非常に難しい現実があります。なぜなら、今の日本では、高齢になって何か問題があると、医療機関に搬送され、なんとかして病気を治そう、それがかなわないときには少しでも延命しようという措置をとられるからです。放置していると、逆に世話をしている人が
人間、死を迎える状態になると、食べ物も飲み物もいらなくなるのです。だから食事に手をつけなくなった高齢者になんとかして時間をかけて食べさせようとするのは、食べさせられるほうにしてみたら苦痛なのだといいます。さらに点滴や胃瘻(いろう)をほどこされたりするとそれはもう苦痛でしかないのだということです。
さらに、中村氏が言うには、完全放置すれば、がんは痛まないと言います。なのでがんで死ぬのが最高だといいます。
日本人は「生きる」ことについては多くの議論を行うが、「死」ということに対してはそもそもイメージを持っていない人が多すぎると言います。年をとったらそもそも老化のためにどこかが痛みます。それは「治そう」とするのではなく、「老化のせいだ」と割り切って、それなりの活動をするように心掛ければいいのですと。
正直、目から鱗でした。
今若い人でも「老い」は必ずやってきます。そして、死は必ず等しくすべての人が迎えるものです。私は人生の最後を迎えるときにはこの本のように、穏やかな死を迎えたいと心から思いました。そして、その死を自分の子供たちに見せることが最後の親としてのつとめではないかと強く思いました。
この本を読んで最初に浮かんだのは、私の祖父母でした。2人とも病院と老人ホームで10数年という、本当に長い期間を寝たきりで生活し、亡くなりました。2人が上記のような大往生であったか。決してそうとは言えなかったと思います。
(不謹慎ではありますが)2人のためにかかった費用は莫大なものでした。父と母はその費用ねん出のためたいへん苦労をしました。もしも、自宅で看病し、「自然死」を迎えるような看取り方を選択していれば。。。。
私は治る見込みのない延命措置はまっぴらごめんです。ですから、人工呼吸器、胃瘻、人工透析などによる延命はしないでほしい、と妻には伝えようと思います。ただ、その意思を書面にしておかないと、「保護責任者遺棄致死」の罪に問われる恐れがあります。それは用意しようと思います。
この本、若い人でも自分の最後を迎えるまで、どう生きるかを考え直させてくれる良書だと思います。
あー、眠くなってきた。変な事をかいていたらあとで修正しよう。。。
ではおやすみなさい。
#日々感謝 m(_ _)m