心の枠と親の教育について
こんばんは、YO茶です。
YO茶は夏休みに入りました。8月10日の夜から大阪へ出発し、今回は久々1週間ほど大阪方面に滞在することになります。
土曜から実質休みなんですけど、新しいプロジェクトの日程調整を急きょ行うために月曜は仕事することが確定です(泣)。いやー、まあこれも経験です。
さて、今日はちょっと心の枠というものと教育について、この前なんとなく考えたことを書き綴ってみようと思います。
ここ1年、私は、自分がこうなっていきたい、こうありたいという方向へ進むときに障壁となっている「心の枠」を外すということついてにあれこれと学び、実践し、生活に活かしてきました。
心の枠というのは、「こうあるべきだ」とか、「こうしなければならない」とか、「普通はこういうものだ」とかいった考え方や思いのことだと私はとらえています。
この心の枠が一番少ないのって、それは子供たちです。そう、幼くなれば幼くなるほど心に枠がありません。とても自由です。
子供たちは、大きくなるにつれ、親からのしつけ、学校養育、社会のとかかわりを通じて様々なことを教えられていきます。このとき、「常識」とか、「しつけ」、「道徳」、「社会観念」といったことが体に染みついていきます。
そうして常識をもった大人となっていくのです。
ところが面白いことに、最近になって、私が外さなければならなかった「心の枠」というものの正体は、子供のころから大人に教えられてきた常識や社会観念だったりしたのです。
常識人になっていくことは、すなわち実にたくさんの「心の枠」ができていくことなのですね。
外さないといけない枠が、成長に従い教わってきたものの中から醸成され、結果自分の可能性を自分の中で潰していっていた。
なんというか、これは私にとってはちょっと衝撃的なことでした。
人生をよりよく生きていくために良いと思っていたことが、むしろ自分のこの先の人生の足かせになってしまうなんて。。
では、子供の時の自由な心のまま大人になっていくことは、人生において理想なのでしょうか。
全く心に枠がないという状態は、究極の状態ですが、それではこの世を生きていくことは極めて厳しいと思います。あるとすれば、強烈なカリスマとなり、その人の身の回りのお世話を何から何までしてくれるサポーターがいる場合ですかね。それって、いわば、大きくなった赤ちゃんですね。
人として絶対にやってはいけないことというものはあって、それはやはり学んでいかなければならないと思います。人を殺してはいけませんといったことです。
問題は、自分の親がもっている常識や観念がガチガチで、それを子供にそのまますりこんでいくような場合です。例えば、
「日本で人生を安定して生きていこうと思うなら、勉強して、いい大学に入って、一流企業に就職して、結婚して家庭をつくり、家を買って、出世していかないとね。」
といったようなものの考えです。
親の刷り込みというのは、実に強力で、子供には大きく影響をあたえます。それを受け止めるか、反発するか、それはその子にもよりますが、いちばん大きく作用するのですね。
自分の生きてきた中から得たこと、学んだことを子供に伝えることはあっても、それを押し付けちゃいけないんだよなぁ。それがその子にとって心の枠になって、足かせになるかもしれないわけですからね。
今の自分は、子供たちを枠にはめてしまっていないか。可能性の芽を潰していないか。
そんなことをなんとなく考えていた夏休みの初日なのでした。
#日々感謝 m(_ _)m